【偏愛レビュー】哲学と躁うつのあいだで──『暇と退屈の倫理学』を読んで見えた、気晴らしと自由の取扱説明書

【偏愛レビュー】哲学と躁うつのあいだで──『暇と退屈の倫理学』を読んで見えた、気晴らしと自由の取扱説明書

更新日:2025年5月18日

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はじめに:躁うつの波と「退屈」の正体

「退屈している暇なんてないんだよね」と言ったのは躁のときの僕だ。

だが、うつに沈むとき、あの底なし沼のような感覚の正体をよくよく眺めてみると、それはただの「絶望」ではなく、「退屈」だったりする。希望も絶望も持てない“何も起きなさ”が広がっているとき、心の中には空白が生まれる。その空白に耐えきれず、人はときに焦り、何かを埋めようともがく。

そんな折に出会ったのが、國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』だった。

なぜ「退屈」はこれほどまでに苦しいのか?

國分はこの本の中で、「退屈」とは単なる時間の余白ではなく、「対象の喪失」であると定義する。言い換えれば、「退屈」とは世界に対して関心を持てなくなる状態だ。

この視点は、躁うつという極端な波の中に生きる自分にとって、驚くほど腑に落ちた。躁のときは世界が輝いて見え、すべてが対象になる。だが、うつに落ちると、あらゆるものが「無関係」に感じられてしまう。好きだった音楽も、興味を持っていた本も、まるで意味を失う。

そう、「退屈」は、世界とのつながりを失った状態なのだ。

退屈しのぎの3段階──その先にある“自由”の問い

國分は「退屈しのぎ」には大きく分けて3つの段階があると説く。

  1. 社会の流れに乗って情熱を注ぐ(例:仕事、キャリア)
  2. 趣味や交流で気晴らしをする(例:音楽、旅行、映画)
  3. 1の退屈しのぎ自体をやめて別の流れに乗り換える(例:転職、環境リセット)

この3段階を行き来するうちに、僕たちは「退屈しのぎ」を繰り返すループに閉じ込められてしまう。

「退屈から自由になる」ことはできるのか?

では、「退屈を完全に超越する」ことはできるのだろうか?

國分はそう簡単には答えない。むしろ、退屈を避けることよりも、「退屈とどう付き合うか」を問い直す必要があると語る。

この視点は、双極性障害の“気分の波”と向き合う日々の中で、僕にとって一つのヒントになった。

「退屈だからつらい」のではなく、「退屈に耐えられない自分」がつらいのだとしたら──
そこには訓練や哲学的視座によって、変容の余地があるかもしれない。

哲学と躁うつのあいだで

『暇と退屈の倫理学』を読んで気づいたのは、僕にとって“哲学”とはまさに、躁とうつのあいだで世界を見直すための道具だということだった。

躁のときには、やるべきことが山のようにある。うつのときには、何ひとつする気になれない。
その「あいだ」で立ち止まり、「なぜやるのか」「なぜやれないのか」と問い直す時間が、哲学によって与えられる。

とくに強く印象に残ったのが、「環世界(Umwelt)」という概念だ。これは、生物はそれぞれ“自分にとって意味のある世界”だけを知覚し、その中で生きているという考え方。

この視点は、躁うつの波の中で劇的に“世界の見え方”が変わってしまう自分にとって、まさに体感的な真理だった。

この気づきは、「自分の世界がすべてではない」と認めることでもある。退屈しているとき、絶望の中にいるとき、そこからすぐには抜け出せなくても、「別の環世界」が存在すると知っているだけで、ほんの少し救われる。

退屈は、敵ではない。
退屈は、僕に「自分が本当に望むものは何か?」を問いかけてくる。

それにちゃんと向き合えるとき、少しだけ、自由に近づけた気がするのだ。

おわりに

躁うつの視点で哲学を読むことは、ただ「知識」を得る以上に、自分の世界を見つめ直す行為だった。
『暇と退屈の倫理学』は、気晴らしの本ではない。けれど、その一歩手前で迷っている人にとって、間違いなく一つの「救い」となる本だと思う。

書籍情報

  • タイトル:暇と退屈の倫理学
  • 著者:國分功一郎
  • 出版社:太田出版
  • 初版発行:2011年
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